Sonia's sanctuary

私のブログをいつも読んでくださっておられる皆さんへ いつもありがとうございます。 しばらくご無沙汰しておりました。

ちょうど四月二十六日に最後のブログ投稿をしてから、本日に至るまでに私に起きた出来事を、少しずつ思い出しながら皆さんにお伝えしたいと思います。

まずは、あの突然訪れた死後の世界に触れた私の状況を、娘マーサが彼女のブログで以下のように描いてくれましたので、その内容を翻訳したものをご紹介いたします。

『天使たちは私たちのそばにいる 2025年5月7日 マアサイシス著 ANGELS AMONG USMama loves to shop. What used to annoy me now brings me joy, as I’ve learned to nurture our relationship by appreciating what lights her up. Our closeness was forged in the volatil…lessonsfrommylump.com

母は買い物が大好きだ。かつてはそれが煩わしく感じられたけれど、今では母が夢中になるものに共感することで、関係を育む喜びを知った。私たちの絆は、私のガンが生活の中心になっていた激動の年月の中で鍛えられた。その年月は、お互いの鎧を脱ぎ捨て、傷つきやすさを抱きしめ合うという贈り物を教えてくれた。

ついに今、私たちの間にあった隔たりが、ほぼなくなったと感じている。その隔たりは、おそらく私が帝王切開で母の体から取り出され、離されたあの日に始まり、母の心音に再び触れるまでの三日間でさらに広がっていった。

私は長い間、母に「物」ではなく「存在」で愛を感じさせてほしいと願っていた。母はたくさんの贈り物をくれたけれど、愛はいつもモノに隠れているように思えた。でも今は違う。母の愛は常にそこにあったのだと、どんな形であれ、それが真実であることに気づいた。

その日、私は母を隣町へ連れ出し、ランチとカナディアン・タイヤ(母の買い物欲を満たせるお店)へ行く予定を立てていた。母の味覚にかなうタイ料理レストランを選び、おいしい食事で満たしてから、思う存分買い物を楽しんでもらおうと考えた。

母の激しい胃の発作は、ここ数ヶ月出ていなかった。その発作は彼女を脂汗と激痛で折り曲げさせるほどのもので、見ているだけでも恐ろしかった。父と私は何度も病院で検査を受けるよう勧めたけれど、彼女はすぐに回復し、いつも大丈夫だと言って取り合わなかった。けれど、私は心の奥で何か深刻なことが起きていると感じていた。でも、彼女にその中を見つめさせることはできなかった。自分自身が医療検査に伴う不安(scanxiety)を痛いほど知っていたから。

私は、手作りのプロバイオティクス入りヨーグルトが彼女を癒したのだと信じていた。毎週、オーガニックのハーフ&ハーフを買って加熱殺菌し、Lactobacillus reuteri と Lactobacillus casei Shirota を加えて36時間発酵させた。この2種の乳酸菌は、腸の健康や睡眠の質に良いとされる。私は慢性の潰瘍性腫瘍に伴う感染症治療で抗生物質を多用したため、腸炎になりやすい体になっていた。だから腸を癒すことに必死だった。そして実際に癒した。母の腸も癒えたと信じていた――あの春巻きを食べるまでは。

二口食べた後、母は「しまった」という表情でお腹を押さえた。その瞬間、私の胃にも不安が広がった。「今じゃない、ここじゃない」と願った。レッドカレーはまだ来ていなかったが、会話で気をそらそうとしても、お互い、これ以上の刺激を与えるのは得策ではないとわかっていた。私は数口だけ食べてテイクアウトを頼み、母は二度目のトイレへ。

「帰ろうか」と私は言った。 「大丈夫よ」と母はゆっくり立ち上がった。

彼女が最も望んでいた薬はすぐ近くにある店で、買い物リストの品をすべてそろえること。それを知っていた私は、恐怖と理性の間で葛藤しつつ、母の判断を信じて任せることにした。

彼女はショッピングカートに身を預け、時折立ち止まりながら痛みに耐え、呼吸を整えながら目的の品々を見つけていった。その姿に感心しながらも、もしかつて見たような激しい発作になったらどうしようという恐怖が消えなかった。私は背中をさすり、熱が彼女のシャツ越しに伝わり、額には汗がにじんでいた。

さらに、私の車を隣町のカークリーニング店に取りに行く予定もあり、帰宅はまだ数時間先。そのうえ、安売りスーパーにも立ち寄る計画だった。母は薬がまったく効いていないことが明らかでも、スケジュールを変える気はなかった。

帰り道、母は耐えるように静かに座り、道路の衝撃に苦しげに息を吐いていた。父はすでに自宅で四時間のオンライン講義を開始していた。私は母を支えながらベッドに運び、温熱パッドを準備し、長年自分の痛みを和らげてきたモルヒネを少量与えた。私たちの家族のいつものやり方――「しばらく様子を見よう」だった。

やっと自宅で落ち着いた頃、電話が鳴った。母からで、「もう一錠飲んでいいか」とのこと。迷わず車に飛び乗り、すぐに母の家へ向かった。地下からは父の講義の日本語が聞こえていた。彼の妻が上の階で激しい痛みに顔を歪めていることなど、知る由もなかった。

母の汗に濡れた顔、蒼白な肌、その姿を見た瞬間、私は決めた。「今すぐ救急に行くよ」と日本語で伝えた。彼女には反論する力もなかった。

数日後、母が教えてくれた話を聞いて、私は本当に天使が見守っていたと確信した。あのとき、私が迷わず病院へ連れて行かなかったら、ERで早く診てもらえなかったら、CTスキャンを必死で頼まなかったら、私たちは母を失っていたかもしれない。

母は腸に穴が空き、感染が広がっていた。点滴の抗生剤でも追いつかず、彼女は救急車で大きな病院へ運ばれた。外科医が待っており、すぐに緊急手術へ。

私自身の闘病の中で学んだ「思考・感情・体験のつながり」が、恐怖とともに胸に蘇る。予定された二時間の手術は四時間に伸びた。何が見つかったのか?どれほど重症だったのか?死ぬ可能性もあるのか?最悪の想像が私の信仰を揺さぶった。

ついに電話が鳴った。 「手術、終わったよ。無事だ」と父。 「明日の朝行くね」と私は深いため息とともに答えた。

外科医によると、緊急手術がなければ母は命を落としていた可能性が高いという。ひどく損傷したS状結腸の一部を切除し、つなぎ目が癒されるまで一時的な人工肛門を装着。お腹には大きなホチキスの跡が刻まれていた。

翌日、母に会った瞬間、私はわかった。彼女は、あちら側に触れてきたのだと。

「天使があちこちにいるのよ、マアサ」と彼女は言った。 「え?見えるの?」 「顔は見えないけど、透けたカーテンみたいに流れていて、たくさんいるの。看護師たちを助けて、みんなのそばで手伝っているの。」

彼女は感極まった目で続けた。「その中の一人が、私の耳元で何かをささやいたの。」

言葉の意味はわからなかったが、「何があっても大丈夫」という確信に包まれたという。そして亡き父母、じいちゃんとばあちゃんが現れて、「死の先には恐れるものは何もない」と伝えてくれた。

母が涙を流す姿は珍しいけれど、それは私が死に直面したときに感じた神への深いつながりと同じ涙だった。鳥肌が立った。これは本当だとわかった。

「あなたも天使と一緒にいたのよ」と母は言った。「でもあなたは透けてなかった。病室の外を歩いていて、私が何度もあなたを呼んでいたの。」

私はその病院に行ったのはその日が初めてだったが、母は前日に私がかぶっていた帽子の特徴を言い当てた。祈りが物理法則を超えることもある――私はそう信じている。祈りが届いていたことで、私は母のそばにいたのだ。

「それから変なことが起きたの」と彼女は続けた。「私、自分が逆さになって…ニシンの燻製の中にいるのを感じたの。」

「ニシンの…スモーク?」私は不思議に思った。

その意味が分かったのは、父のおかげだった。彼の父親はスコットランドの燻製工場で働いていた。母はその場所で彼の存在を感じたのだという。彼が天から見守っていた――「死の先には何も恐れることはない」と自ら証明するために。

一週間後、母は退院した。長時間の手術で喉に管を通していたため、声がかすれていた。いまの彼女は、天使たちの世界に片足を残しているかのようだ。あの体験がもたらした静かな確信が、私自身の信仰の大地をより深く固めている。

教訓:「神の天使たちは、あなたのすぐ近くにいて、愛で包んでいます。どうか確信してください。『私はあなたを慰めなしに放っておかない』と。」 (奇跡のコース 完全注釈版)』

今回4度目の臨死体験――あのときの強烈な体験の余韻は、今も私の内なる世界を深く震わせ続けています――魂の奥底に何かが刻み込まれたまま。。。